エマニュエル・パストリッチ博士が受けた政治弾圧の物語
エマニュエル・パストリッチ(Emanuel Pastreich)は、元々東アジア古典文学専門を大学で専攻し、その比較研究を長年したため、日本語、中国語、韓国語に堪能になり、幅広いネットワークを持っていた。アメリカでは、イリノイ大学の助教授を務めていた。
2001年5月、パストリッチが東アジアの著名な大学とのインターネットを通じた教育と共同研究する企画書を作り、イリノイ大学の内部でそれを当局と論議することになった。その後、前例のないインターネット教育プログラムを日本の東京大学、韓国のソウル大学、そして中国の北京大学にも提示し、彼等から非常に評価された。
イリノイ大学は工学部が強く、遠隔教育はその当時、最も進んでいた教育方法だった為、アジアの一流大学とこの教育法を使って連携する絶好の良い機会だと彼は考え、このプロジェクトに関して多大な働きを見せた。特に、各大学の間でインターネット教育を共有するという発想は非常に斬新であった。
そして東アジアの大学に提出する提案書には、具体的にどのようにして東アジア諸国がもっと緊密に協力して統合し、ヨーロッパのように共同体になりうるかという例が記載され、また、朝鮮半島統一についても具体的な提案が記載されていた。
そしてもっとも重要な点は、アメリカもその将来、東アジア共同体のメンバーになるべきともアメリカ人であるパストリッチ自身が主張している点である。要するに、アメリカの将来はアジアにあると彼は提言した。そして彼は、2000年7月に東アジアに出張し、各大学の当局と直接この提案について議論し、彼等からの評価は上々であった。パストリッチはその計画について中国語、日本語、韓国語に訳して各国の状況に合わせて文書を作成し、彼の知り合いの教授らに送付した。そして彼はちょうど2000年沖縄G7会議の時にソウル大学、その次に北京大学を訪問し、その計画について説明した。数多くの学者と政治家が韓国と日本で真剣にその提案を討論し、相当の影響があったようである。インターネットについてのパストリッチの提案も実際に教育政策としても討論され、特に彼の提言した北東アジアの共同体は、日本、韓国、中国と米国にとっては相当に斬新なアイデアであり、また彼等にとって説得力のある内容であったことは確かである。
日本には少し、反感もあったが、(技術を嫌う教授や、日本と韓国、中国の協力を強調する内容を嫌う団体もあったためである)だがしかし、アメリカ国内での激しい反対とそれは、比較にならなかった。
アメリカのパストリッチに対する復讐は、15年以上経った今でもある意味でまだ続いているのだ。
パストリッチが2000年5月にその北東アジア共同体に関する提案を金泰東(その当時の金大中大統領の秘書)に出した時に伴い、アメリカ諜報部員が24時間彼を監視することが始まった。そしてあまり目立たない形で、色々な偶発的な問題を作り出し、この計画がうまく進まないようにしようと彼等は働いたのである。軍事複合体関連の業者は、パストリッチが東アジアの秩序を保つために積極的に働いている事を、かなり恐れていたのである。彼の立場はその当時、イリノイ大学の助教授であったが、パストリッチが中国、韓国、日本の語学に堪能で、この案を具体的に進めれば計画が現実味を帯びてくる事を悟り、軍事複合体企業は機密作戦を用いて彼の妨害を始めた。特に、ミサイル防衛を進めようとしていた企業は、パストリッチを目の敵にしたのである。
この妨害工作の多くは、連邦調査局が秘密国家安保書簡を大学の当局に出して、関係者がパストリッチと会話できないようにして事実上彼の計画を葬り去ろうとしたという内容だ。ある場合においては、東アジアの大学のパストリッチの知り合いにまで書簡を出した。だがしかし、アメリカ政府、国防部の中でも中国、北朝鮮との対立を維持しようという勢力が強かったものの、パストリッチと同じ考えを持っていた者も少なくはなかったのである。パストリッチの生活を困難に追いやる作戦があった一方で、パストリッチを保護しようとする人も中には存在した。
2000年の10月からパストリッチをより困難な状況に追いやる為に、アメリカ諜報の勢力は伝統的な「精神病」作戦を始めた。パストリッチが1998年に脳手術を受けた事をを契機に、彼の関わる大学内にパストリッチが精神異常だという噂を立てさせたのである。
緊迫した状況が5ヶ月続き、たまにこの状況が良い方向に解決できそうになるまで高い合意を得られそうになったこともあったが、ブッシュ政権が2001年1月に権力を掴むと共にパストリッチの状況が急速に悪化した。パストリッチが2001年2月に中国の新聞に対して寄稿した際に、それを気に入らない者達がパストリッチを「自殺」させるよう命令を下したのである。勿論、その命令に対して抵抗する諜報部員がいたため、すぐにそれは実施できなかったのであるが。パストリッチは、多くの脅威の圧力の為に、一切の活動を辞めざるを得なかった。しかし諜報部員らは、パストリッチに対して密かに興奮剤などを盛り、彼が精神病にかかった人であるかのように演出したのだ。
2001年2月26日、パストリッチは突然病院に呼び出され、医者から既に作成された調査医報告を受けた。パストリッチは1年半くらいの間、精神病のために病気休暇という扱いになっていたが、それは事実上の軟禁であった。彼は、ほとんど友達や同僚と連絡を取れない状況であった。2003年からようやく、また授業を始める事ができたが、学術活動は殆どできない状況であった。
勿論、アメリカ政府からパストリッチの活動を妨害する為に色々な工作を試みた諜報部員は存在したのだが、同時にパストリッチに同情して守ろうとする人もあった。パストリッチは全く自由がない状態であったが、たまに外交などの政策においては重要な役割を時々、果たしたのである。
2003年にパストリッチは久々に日本について研究した。また、教授の道に復帰する軌道に乗っていたが、自由は全くなかった。
そして、2004年ブッシュのいわゆる「再選」においてまた実態が変わってしまった。パストリッチを擁護していた公務員の中でも若干進歩的な考えを持っていたコリン・パウエル(Colin Powell)国務長官などがアメリカ政府から出て行き、それ以上大学で教える事ができなくなってしまった。
2004年に、パストリッチは常任教授の資格を得られず、イリノイ大学から解雇された。彼を常任教授とするか否かを審議する教授委員会には不可思議な点が多かったのだが、それよりも不可思議な事はパストリッチが数多くの仕事に応募してみたものの、全て面接すらさせてもらえなかった点である。
しかし、パストリッチをずっと監視していた諜報部員の中でも彼に同情していた者達は、彼の為に努力してパストリッチの為の仕事を中央情報局で作ったのだが、結局それも実現しなかった。
パストリッチは家族を連れてワシントンに行ったが、何も仕事が得られず、家族を韓国へと送り、彼自身は2ヶ月ほど、従兄弟の家に泊まって、毎日大勢の人に会っては仕事を探し続けた。
そしてその年の2月に、上院議事所に北朝鮮関連のゼミがあり、パストリッチは彼の友人に招待されて発言する機会を得た。その発表の場に外交官達が多来ていて、韓国の外交官の一人がパストリッチを一週間前にアメリカに来たばかりの新任駐米洪錫炫大使に勧めたのである。洪大使は元々は学者であり、彼の父親が昔、法務長官をしていた頃に政治的は理由で投獄された事があった。その為、彼はパストリッチの身の上を真剣に考えてくれ、結局、韓国大使館の文化院に仕事を作り、彼を雇用したのである。
韓国大使館は法律においてアメリカの領域ではない為、その仕事は認められた。文化院で毎日仕事をして、韓国の文化の紹介役を務めた。給料は決して高額ではなかった為、彼は苦労したが、その期間にワシントンで数多くの専門家に会い、たまに大学などで講義ができる機会もあった。彼は2年間その仕事を続けた。他にも色々な仕事に応募してみたものの、アメリカの大学、その他の機関には面接をする事すら出来なかった。
2007年2月にパストリッチは韓国の地方大学、又松大学に講師の仕事を得たため、彼は韓国に行くことにした。その後ソウル市にある慶煕大学に移って幅広い活動を始めたのであるが、アメリカ政府の出した秘密書簡が依然として有効であった為、パストリッチはアメリカ、日本などの学会に殆ど招待されていない。また、アメリカの一切の大学、その他の組織に就職できず、パストリッチが貢献した活動の内容は一切、アメリカで報道されていないのである。そしてまた韓国国内でもアメリカの諜報部員がたまにパストリッチの活動に干渉してきたりもするのだが、憂慮すべき重要な点は、パストリッチ周辺の知人、友人達がこの事について決して口にしない事である。
2019年14年ぶりにパストリッチがワシントンに帰って韓国大使館に顧問をしばらくしたが、コロナになってからまたアメリカから追い出されて韓国にに二年間すみながら、米国大統候補者出馬して、2023年に米国緑の党に立候補した。その結果アメリカに本格的な政治活動を始めたが、日本に三十年ぶりに暮らすことになった。